
XX年 X月末日。
その日は音楽会でいつもより早い帰宅でした。
そしてその後は、近所の同級生の妹の家に行く予定だった。
ただいま、と玄関を開けた幼い ひらなり ゆめの目に飛び込んできたもの。
それは、
母がうつ伏せに倒れた姿でした。

人が倒れた姿を初めて見たひらなり。
混乱はしていたが、
「お母さん!」と声を掛けることはしなかった。それが無駄な事は何となく知っている。
階段の下で倒れた母。鼻をつく失禁の臭い。
状況を把握してすぐに家から飛び出る。
大家さんの家に向かったのだった。
「母が倒れています!救急車を呼んでくれませんか」
大家さんの家は大きなゴールデンレトリバーを飼っている。呼び鈴を鳴らす前から吠えられていたのが、やがてサイレンの音にかき消されていく。
家と家同士の距離も遠い、田舎の田んぼ道。
救急車など滅多に通らない。野次馬の見物人が増えていく。
あの時の緊張感を現在でも覚えている。
到着した救急隊員のお兄さんが玄関のドアを開ける前に、「”嘔吐”しているみたいです」と遠回しな予告をする。
失禁している、とは言えなかった。
ひらなりは何故、母の携帯電話から通報しなかったのか。
救急車が来ればどうなるか予測が付いていたから。先に大家さんに頼る事で、状況報告を兼ねていた。
そして救急車を待つ間、遊ぶ予定の同級生の家まで行き予定のキャンセルを告げる。
10歳になったばかりの子供にしては、冷静な対応をしていたと思う。 取り乱すこともなかった。
不安だったが泣かなかった。
10歳のひらなりは大人にならなければいけなかったから、泣けなかった。
若干10歳で大人にならなければいけなかった背景については、本編で少しずつお話していきたいと思う。